明治期までの日本人が、今と比べればとてつもない体力を持っていたということは、当時日本を訪れた外国人の残した多くの文献に記されている。今回はその中の幾つかを紹介してみたい。
まずは、ドイツ帝国の医師・ベルツの手による「ベルツの日記」から。
エルヴィン・フォン・ベルツ(1849~1913)はドイツ生まれ。ライプツィヒ大学で内科を修めた後、27の歳に明治政府によって招聘され、以後29年間日本に滞在する。幕末から明治にかけて日本が「殖産興業」を目的に先進技術や学問・制度を輸入するために雇用した、いわゆる「お雇い外国人」の一人だった。東京医学校(後の東京大学医学部)において医学や栄養学を教授し、滞在中日本人女性(花子)を妻に娶っている。
そのベルツが、ある日東京から110km離れた日光に旅行をした。当時のこととて道中馬を6回乗り替え、14時間かけやっと辿り着いたという。しかし二度目に行った際は人力車を使ったのだが、なんと前回よりたった30分余分にかかった(14時間半)だけで着いてしまった。しかもその間は一人の車夫が交替なしに車を引き続けたのだった。
普通に考えれば、人間より馬の方が体力があるし格段に速いはずなのだが、これではまるで逆である。この体力はいったいどこから来るのだろう。ベルツは驚いて車夫にその食事を確認したところ、「玄米のおにぎりと梅干し、味噌大根の千切りと沢庵」という答えだった。聞けば平素の食事も、米・麦・粟・ジャガイモなどの典型的な低タンパク・低脂肪食。もちろん肉など食べない。彼からみれば相当の粗食だった。
そこでベルツは、この車夫にドイツの進んだ栄養学を適用すればきっとより一層の力が出るだろう、ついでながらその成果を比較検証してみたいと、次のような実験を試みた。「ベルツの実験」である。
22歳と25歳の車夫を2人雇い、1人に従来どおりのおにぎりの食事、他の1人に肉の食事を摂らせて、毎日80kgの荷物を積み、40kmの道のりを走らせた。
然るところ肉料理を与えた車夫は疲労が次第に募って走れなくなり、3日で「どうか普段の食事に戻してほしい」と懇願してきた。そこで仕方なく元の食事に戻したところ、また走れるようになった。一方、おにぎりの方はそのまま3週間も走り続けることができた。
当時の人力車夫は、一日に50km走るのは普通だったという。ベルツの思惑は見事に外れたのだった。彼はドイツの栄養学が日本人にはまったくあてはまらず、日本人には日本食がよいという事を確信せざるをえなかった。また彼は日本人女性についても「女性においては、こんなに母乳が出る民族は見たことがない」とももらしている。それらの結果、帰国後はかえってドイツ国民に菜食を訴えたほどだったという。
西欧人から見れば粗食と見える日本の伝統食が、実は身体壮健な日本人を育てる源泉だったという証左は枚挙にいとまがない。例えばフランシスコ・ザビエルは1549年(天文18年)に、「彼らは時々魚を食膳に供し米や麦も食べるが少量である。ただし野菜や山菜は豊富だ。それでいてこの国の人達は不思議なほど達者であり、まれに高齢に達するものも多数いる」と書き残している。
また、ダーウィンの「進化論」の紹介や、大森貝塚の発見者として有名なエドワード・S・モース(1837~1925)も1877年(明治10年)から都合3度来日しており、次は彼の記録「日本その日その日」からの引用である。
「ホテルに所属する日本風の小舟が我々の乗船に横づけにされ、これに乗客の数名が乗り移った。この舟というのは、細長い、不細工な代物で、褌だけを身につけた三人の日本人ー小さな、背の低い人たちだが、おそろしく強く、重いトランクその他の荷物を赤裸の背中にのせて、やすやすと小舟におろしたーが、その側面から櫓をあやつるのであった。」
「七台の人力車を一列につらねて景気よく出立した。車夫の半数は裸体で、半数はペラペラした上衣を背中にひっかけただけである。確かに寒い日であったが、彼等は湯気を出して走った。ときどき雨がやむと幌をおろさせる。車夫たちは長休みもしないで、三十哩(今でいうおよそ50km)を殆ど継続的に走った。」
モースはこの他に、利根川を船でおよそ100km下った時に一人がずっと櫓を操っていたことなどを記している。
そして、「ジャポン1867年」(1867年は慶応3年)を書いたL・ド・ボーヴォワール。彼は世界一周の途中1867年に日本に立ち寄り35日間滞在したフランス人である。彼はその際に日本国内を馬を借りて旅をしている。初日には64kmの道のりをギャロップで走ったのだが、その際に馬に付き添った別当(馬丁)についてこう書き記している。
「その間中私は別当を見て飽きることがなかった。彼はその友である私の馬に、困難な箇所のたびごとに、咳き込んだ小さな掛け声で予告しながら、私の前をまるでかもしかのように敏捷に走った。日本では馬に乗る者は、馬の好敵手となるこの筋骨たくましくも優雅な肢体の、忠実で疲れを知らぬ走者が絶対に必要であり、これなくしては決して冒険を冒さないようである。
「アラマド」(これが私の新しい従者の名前である)は、実際この長い一日の間、四六時中我々の速い走行の伴をした。ある茶屋で馬からおりると、彼は直ちにその場にいて馬の世話をし、冷たい水を鼻面にかけ、いんげん豆の飼料を少し与える。この男の軽い足が地面にほとんど触れるか触れないかといった様をどんなにお見せしたいことか。」
開国の頃、日本人は西欧人が、そして今の私たちが驚くほどに健康で頑強な体をしていた。なりは小さいながらも実力では西欧先進国の水準を遥かに超えていた。これがやがては日清・日露、そして二度に亙る世界大戦で、人的能力では実質「世界最強」を示したわが国軍事力の礎ともなるのである。それは白人優越主義時代のただ中にあって、生の日本人の姿を見た欧米人にとっては信じがたい、けれども歴然とした事実だった。
しかし、にもかかわらず明治政府は、ベルツの研究結果よりもドイツの「栄養学理論」を重んじて、フォイトの「欧米人並みに体を大きくする栄養学」の方を選んでしまった。
ドイツの栄養学者・カール・フォン・フォイト(1831~1908年)はミュンヘン大学の教授であり、また栄養学においては当代一流の権威を持つ人物だった。彼は健康そうなドイツ人の食生活調査から、体重64kgのドイツ人は一日当たりタンパク質118g、脂肪56g、糖質500g、およそ3000kcalを摂ることが望ましいと算出していた。
そこで政府はその理論に基づき、当時の日本人は小柄で体重が52kg程度だったことから、これを比例配分して「タンパク質96g、脂肪45g、糖質415g、2450kcal」を日本人の栄養所要量と定めた。これは当時の日本人の食生活「タンパク質56g、脂肪6g、糖質394g、1850kcal」を大幅に超えるものだった。元々「低タンパク・低脂質・高糖質」で健康だった日本人に対して、ドイツ人並みの「高タンパク・高脂質・低糖質・動物食中心」の食事に改めるよう指導したのである。ここから日本の「カロリー・栄養素計算偏重主義」、西洋の栄養学一辺倒の現実離れした健康政策が始まる。
フォイトの理論はもちろん、日本とは気候も風土も人の体質もまったく違うドイツにおいて築かれたものである。例えばドイツは北緯50度という、温暖な日本(北緯35度)に比べれば緯度的には樺太並み。ちなみにベルリン、パリ、ロンドンの年間気温はいずれも10度前後で、日本で言えば青森や盛岡のそれに当たる。そこでは寒さのため当然ながらエネルギー消費量が多いので、どうしても高カロリーの食事を摂らざるをえない。また稲も育たず豆や野菜類も採れにくいので、いきおい肉や乳を食事の中心に据えた食習慣となっている。あまりに日本とはかけ離れている状況なのだ。この時導入された栄養理論を、その著書「伝統食の復権」の中で島田彰夫博士は「北緯50度の栄養学」と呼んでいる。
しかし明治政府は盲目的に「近代栄養学」を推し進めた。政府のこの姿勢は大正・昭和と受け継がれ、あれから100年以上経った現在に至るまで脈々と受け継がれている。先般厚生労働省の定めた「日本人の食事摂取基準」(2010年版)によれば、運動程度が平均的な18~49歳男子のエネルギー摂取基準は2650kcal/日となっている。明治政府の定めた突拍子もない基準を更に「上乗せ」しているのだ。当時と比べて日本人の体位が向上している側面があるにはあるが、それにしてもあまりに多過ぎないだろうか。明治の壮健だった日本人は1850kcal(ただし男女含めた成人の推計値)なのである。「北緯50度の栄養学」は、いまだ日本に生き続けているようなのだった。
アグリコ日記さんより
http://blog.goo.ne.jp/agrico1/e/a78f444ea539d44ee6c624d6ea939bcc